
京都の踏み台を訪ねて #01
一台の踏み台と、93年の京都
京都の家を訪ねると、ふとした場所に踏み台が置かれていることがあります。
誰かが作ったものなのか。
いつからそこにあるのか。
誰が使ってきたのか。
その来歴を尋ねてみても、「いつの間にか家にあった」と言われることがあります。
今回訪ねたのは、京都で生まれ育ち、93歳となった中谷弘さん。
中谷さんの家にも、一台の踏み台がありました。
いつからあるのかは、はっきりとは分からない。
「こっそり家の中にあったんです」
そう笑って話す中谷さん。
その踏み台について話を聞いていくと、そこには京都の暮らしの知恵と、人とものとの関係、そして中谷さん自身が93年をかけて積み重ねてきた生き方が、静かに重なっていました。
京都で生まれ、商いの町で育つ
中谷さんのお父様は、福井から京都へ出てきた方でした。
中谷さん自身は京都で生まれ育ち、幼い頃は一つのことに決め込まず、興味のあることをたくさん経験していたといいます。
終戦を中学一年生の時に迎え、その後、商業の道へ。
当時の京都には、商売人になるために学ぶ場所がありました。
お父様は洋品雑貨店「ナカヤ洋品店」を営んでいました。
呉服屋が軒を連ねる町で、呉服屋の主人たちを相手に洋品を商う。
商いとは、商品を売ることだけではない。
相手が何を求めているのかを知り、人と人との関係の中で仕事をする。
中谷さんが今でも大切にしている「人対人」という感覚は、幼い頃からお父様の仕事を通して身についたものなのかもしれません。
「商売っ気は親の血ですね」
そんな言葉からも、お父様から受け継いだものの大きさが伝わってきます。

※ナカヤ洋品店 当時の入店のしおり

※ナカヤ洋品店 当時の織ネームなど
髙島屋で見てきた「もの」
1952年、中谷さんは髙島屋へ入社します。
最初は経理・会計を担当し、お得意様である外商の売掛を台帳で管理する仕事に携わりました。
伊勢神宮や皇室関係、そして全国から京都へ買い物に来る人々。
その後は婦人雑貨なども経験し、40年間、髙島屋で働きました。
仕事を通じて、国内外のさまざまな家具や器、美術品にも触れてきました。
もともとお父様も陶器が好きだったこともあり、中谷さん自身も自然と器やインテリア、古いものに惹かれていったそうです。
「自然とものが集まってくる」
そう話す中谷さん。
それは単純に「ものが好きだから」ということだけではないようです。
「人が好き。人間が好きだから、その縁でものも集まってくる」
人との出会いが、ものとの出会いにつながる。
ものだけを見ているのではなく、そのものの向こう側にいる人を見ている。
長くものと関わってきた人だからこそ出てくる言葉なのかもしれません。
いつの間にか、そこにあった踏み台
中谷さんの家にある踏み台について尋ねると、意外な答えが返ってきました。
「いつの間にか家にあったんです」
いつからあるのか、誰が買ったのか、作ったのか、はっきりした記録は残っていません。
けれど、それは決して「価値がなかった」ということではありません。
むしろ、昔の道具にはそういうものが多かったのではないでしょうか。
特別な名前がついているわけでもない。
誰が作ったのか記録されているわけでもない。
美術館に飾られるわけでもない。
ただ、必要だからそこにある。
そして必要なときに、誰かが使う。
踏み台にも「こう使うもの」という決まった使い方はなかったそうです。
座ることもある。
高いところのものを取ることもある。
時にはテーブルのように使うこともある。
「三畳の間に置いてあって、鞍掛や踏み台として、それぞれの使い方があるんです」
用途が一つに決められていない。
必要に応じて、人が使い方を見つける。
中谷さんは、この踏み台を、「愛嬌がある踏み台」と表現しました。
その言葉が、とても印象に残りました。

※中谷さん宅にある踏み台
「あるもので、どうにかする」
昔の長屋には、吹き抜けがありました。
しかし、暮らしているうちに、その空間がもったいないと考えるようになる。
そこで二階をつくる。
暮らしの中に不便があれば、新しいものを買って解決するのではなく、今あるものを工夫して使う。
昔の生活には、そうした知恵がたくさんあったといいます。
踏み台も、その一つだったのではないか。
必要だから生まれ、必要だから使われる。
そして、使っているうちに傷がつき、手が触れ、少しずつ姿が変わっていく。
それでも捨てられずに、また使われる。
そこには、現代の「用途」という言葉だけでは説明できない、道具と人との関係があります。
ものは、見る人によって違って見える
中谷さんは、ものを見るということについて、こんな話をしてくれました。
同じものでも、それをどう受け止めるかによって見え方が変わる。
物そのものを見るだけではなく、そこにあるものをどう考えるか。
その深さによって、見えるものが違ってくる。
これは、古い道具を見るときにも同じことが言えるのだと思います。
ただ古い踏み台として見るのか。
木の質感を見るのか。
形を見るのか。
傷を見るのか。
その傷がついた時間を想像するのか。
誰がこの上に立ったのかを考えるのか。
そうすると、一台の踏み台が、少しずつ違ったものに見えてくる。
民藝という言葉が大切にしてきたのも、特別な作品だけではなく、「名もない人の手によってつくられ、日々の生活の中で使われてきたものの中にある美しさ」でした。
中谷さんの踏み台には、その考え方を説明する言葉以上に、生活そのものが残っています。
退職後、8年をかけて残した京都の記憶
髙島屋を退職した後、中谷さんは地域の活動に力を注ぐようになります。
学区地域の連合会に所属し、町内の活動にも携わる。
地蔵盆の仕切りなど、地域の中で必要とされることを今でも続けています。
そして、もう一つ大きな仕事を成し遂げました。
龍池の昔の地図の再現です。(昭和初期 龍池の町なみ)
退職後、自ら足を運び、当時を知る人に話を聞き、資料を集め、さまざまな人の協力を得ながら、8年をかけて完成させました。
そこに描かれているのは、単なる道路や建物の位置ではありません。
かつて、そこにどんな店があり、どんな人が暮らし、どんな風景が広がっていたのか。
今ではなくなってしまったものを、記憶と資料からもう一度たどり直す。
それは、京都という町の「記憶」を残す仕事でもあります。
踏み台も、どこかそれに似ています。
踏み台そのものが歴史を語るわけではない。
けれど、それを使った人がいて、その人の暮らしがあった。
そして、その道具が残っていることで、私たちは過去の暮らしを想像することができる。
ものは、記憶をしまっておく器なのかもしれません。

※中谷さんが8年かけて完成させた「龍池の町なみ」

※京都新聞にも掲載された記事
「人の踏み台になってあげる」
インタビューの最後に、ものを残すことについて尋ねました。
中谷さんから返ってきた言葉は、思いがけないものでした。
「人の踏み台になってあげる」
踏み台という言葉そのものに、人のために何かをするという意味があるのではないか。
自分が踏み台になる。
誰かがその上に立つことで、少し高いところへ届く。
その結果は、すぐに自分へ返ってくるわけではない。
けれど、人のためにしたことは、巡り巡って自分の心に返ってくる。
「それは利益ではなく、心が落ち着くこと。それが利益なのではないか」
そう話す中谷さん。
その言葉を聞いたとき、目の前にある一台の踏み台が、少し違って見えました。
行動しなければ、何も残らない
中谷さんは、ものを残すことも、地域をよくすることも、言葉だけでは意味がないと考えています。
「一流と二流の見分け方は、実践できているかどうか」
お金がかかるかどうかではない。
自分にできることを、自分でやる。
たとえば、朝一番に箒を持って家の前を掃除する。水をまく。
ゴミの日には、収集してくれる人への感謝を込めて、手書きで「ありがとう」と書いた看板をゴミ捨て場に添える。
どれも、大きなことではありません。
お金もほとんどかからない。
けれど、そこには「誰かがやってくれるだろう」ではなく、「自分がやる」という姿勢があります。
「汚れていても知らん顔するのではなく、みんなの心がけで少し綺麗になる」
その小さな積み重ねが、次の世代に残っていく。
人にやらせるのではなく、自分自身が行動して見せる。
それが次の世代へ伝えるということなのだと、中谷さんは考えています。

※ゴミ捨て場に添える中谷さん手作りの看板
「なんで?」を忘れない
93歳になった今も、中谷さんは学ぶことをやめません。
その原動力の一つに、幼い頃の「なんで?」という気持ちがあります。
なぜこうなっているのだろう。
なぜこうするのだろう。
これは何のためにあるのだろう。
子どもの頃には誰もが持っていた疑問を、いつの間にか大人になると忘れてしまう。
けれど、「なんで?」を持ち続けていれば、何歳になっても学ぶことができる。
昔、自分が見てきた光景や風景には、先人たちの知恵が埋まっている。
それを見つけ、次の世代につないでいく。
そのために、自分には何ができるのかをいつも考えている。
「役に立てる場所はたくさんある」
そう話す中谷さんの言葉には、93歳という年齢を感じさせない、静かな力がありました。
ものに詰まった「思い」を残す
古いものを残すということは、古いものそのものを残すことだけではないのかもしれません。
そこに込められた思いを残すこと。
そのものを見たときに、誰かを思い出すこと。
昔の風景を思い出すこと。
自分自身の生き方を振り返ること。
それが、思い出になる。
そして、ときには戒めにもなる。
中谷さんは、「悪い時代に戻りたくはない」と話しながらも、昔の時代には「あのおおらかさがあったな」と思い出せるものがあるとも話してくれました。
すべてを懐かしむのではない。
良かったものも、悪かったものも、ものを通して思い出す。
そして、そこから何かを学び、次へ渡していく。
一台の踏み台から
今回、中谷さんの家にあった踏み台には、華美な装飾があるわけではありません。
作者の名前が残っているわけでもありません。
いつからそこにあるのかも分からない。
それでも、何十年という時間の中で、誰かの暮らしのそばにあり続けてきました。
座るために。
高いところへ手を伸ばすために。
ものを置くために。
時には、別の使い方をするために。
人が必要に応じて使い方を見つけ、その役割を与えてきた。
そして今、中谷さんの言葉を通して、この一台の踏み台にはもう一つの意味が加わりました。
「人の踏み台になってあげる」
自分が誰かを支えることで、その人が少し先へ進める。
そして、その行いは、目に見える利益ではなく、自分自身の心を豊かにする。
それは、道具としての踏み台だけではなく、人としての生き方にも重なります。

※中谷さんが大切にする愛嬌がある踏み台
ものを残すことは、過去を保存することだけではない。
過去から何かを受け取り、今の自分が実践し、それを次の誰かへ渡していくこと。
中谷さんが8年をかけて龍池の地図を残したように。
毎朝、箒を持って家の前を掃くように。
ゴミを収集してくれる人へ「ありがとう」と伝えるように。
そして、いつの間にか家にあった一脚の踏み台を、今日まで大切に使い続けるように。
大きなことをしなくてもいい。
「できない」ではなく、「やってみる」。
自分でやって、経験して、考える。
その小さな行動が、いつか誰かへつながっていく。
人から人へ。
ものからものへ。
記憶から記憶へ。
その数珠つなぎの先に、次の世代の風景が残っていくのかもしれません。
京都の踏み台を訪ねる旅は、まだ始まったばかりです。

